どうせ死ぬのに、なぜ生きる

ずっと書きたかったこのテーマ。

「どうせ死ぬのに、なぜ生きる?」

考えることに意義がある!ということにして、

この着地点のない話をテーマに取り上げてみます。

 

意味ある?意味なし?どっちでもない?


大きく分けると

意味ない派

意味ある派

どっちでもない派

で認識の分かれるように思いますので、それぞれの大まかな主張をまず。

 

<意味ない派>

・結局何をやっても、最後は消えるだけ。すべて無意味で自己満足の世界で意味なし。

・長く生きるだけ資源の無駄。

・本能で生存を選択しているだけ。

 

<意味ある派>

・自分の成長要求を満たすため

・やりたいことをやって幸せ得るため。

・自分で様々な経験を楽しむため。

・修行だから。

 

<どっちでもない派>

・死ぬのが面倒だから。

・生まれちゃったから。

・生物の生存本能。

・ただ何となく生きてる。

 

魂や、死後の世界を信じるかなどによっても、大きく違うとは思います。

よりより来世のために、と言う考えであれば、迷いのない話かもしれません。

 

多くの人は、<どっちでもない派>かなぁ?

もし自由に、いつでも生死選択可能ということになったら、皆さんはどうしますか?

 

メメント・モリ


おギャァとこの世に生を受けた瞬間から、真っ直ぐ死へと向かって突き進んでいく人生。

 

メメント・モリって言葉、聞いたことあるでしょうか?

  • 思い出せ(Memento / Remember)
  • 死(Mori / Death)

明日死ぬかもしれないということを忘れずに、今を楽しめ的な意味合いの古代ローマ発生の言葉。(キリスト教用語的にはちょっと違うようですが)

刹那的なようでもあり、日々の大切さをいうようでもあり。いずれも「どうせ死ぬ」と言う概念からはかけ離れたような言葉です。昔はそんな概念なかったのでは?なんて思ったりします。

「どうせ死ぬ」じゃなくて、「残念ながら死ぬ」みたいな。

 

自分で死のタイミングを決めることは許されず、突如として訪れる死か、緩やかに予期できる最後か。後者を幸せと感じ、前者を不幸と感じる人が多いように思います。

どうせ死ぬとはいえ、やはり他人に選択権は渡したくないし、準備もできればしたいと言うのは、みなさん共通でしょうかね。

 

 

人生で起こる「楽しいこと」と「辛いこと」。

そのどちらにより強く焦点を当てるかによって、人生の捉え方も変わってくると思います。

苦悩が多ければ、人生を無意味で早く閉じたいと感じるだろうし。

幸福が多ければ、人生を有意義で長く味わいたいと感じるだろうし。

どうせ死ぬなら、できるだけ早く死にたい。

どうせ死ぬけど、できるだけ長く生きたい。

 

どういう境遇で、どう考えて生きてきたか。結局のところそこだけの違いなのか・・

 

「特に人生に意味などはない」と割り切って楽しむ。

 

それができる人は幸せです。享楽的に生きる人を軽んじる風潮がありますが、一種の才能ではないかと思うのです。決して悪いことではないって。他人にも求めないですからね、そういう考えの人って。

 

でも多くの人は、「食べて寝て遊ぶ」の生活をただ繰り返すと虚しさを感じてしまうもの。人生の目的を見出せないと、悶々と悩んでしまうもの。

 

生ける屍は、生き返れる。


人生で「今日はなくてもいい1日、無意味な1日だった」。そう思う日がない人は充実人生をお過ごしでしょうけれど、大抵の方はよくそういう日があると思います。

でも、そんな日が何年も続いて、死にながら生きている人もいる。

・朝起きてもやることが、やりたいことが何もない。

・誰とも関わらない、関われない。

・心動くことが何もないルーティンだけの日々。

・周りから見えない痛み、苦しみにただ耐えるだけの日々

これらは精神を蝕む猛毒。衣食住が足りている日本は特に「生きがい・目的」を重要視するから辛い。他人から見てわかりづらく、認識されにくいのが特徴的な「生ける屍」を生み出す。

適当にやってるならまだしも、一生懸命生きてこうなると、病む。

自分の心の奥底にある、本当に求めているものと向き合わない限り続く。

自分の人生を生きられないと、生きる屍になる。

 

でも奥底にある真の自分と向き合い、自分の人生を生きれば、生き返れる。

しがらみを全部捨てるのは難しいですよね。

でも、どうせいつか死ぬのに、本当に無理でしょうか?

勇気を出して捨ててみて欲しいのです。

生ける屍は、死んでないのだから。

この記事を、とある人に捧げます。

giogio

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