初めて話を聞いたときは、にわかに信じられませんでした。
ショックすぎて、ガクブル。。。
でも、実は結構多いという不食による「緩慢な自殺」。
色々考えさせられることが多く、テーマに取り上げてみたいと思いました。
ここでは、若者ではなく高齢者のケースのみについて、一体どういうことか詳しく見ていきたいと思います。
ショッキングな実話
直接の知り合いの方の話です。
90歳を過ぎても心身ともに健康で、一切医者の世話になっていなかったというその方の祖母。家族で一緒に暮らしていたので、毎日顔を合わせていたそうです。
食欲も旺盛で、日常的にステーキなどのヘビーな食も召し上がる方で、日々の生活も自分でなんでもでき元気にくらす人だったそうです。
体はもちろん、頭も元気で認知症などの症状も一切なく、シャキシャキしたおばあさんで、周囲も「どこまでも長生きしそうね」なんて思っていたそうです。
ところが
あるとき、お孫さんにあたるその知り合いの方に、「もうそろそろ死のうと思う」と宣言したそうなのです。
どうしてそう言ったのかはわかりませんが、お孫さんは「残念ながら当分元気ね」と思っていたそうです。
健康すぎるそのお婆さんが取った方法は「不食」。
その日から、ピタッと食事をとるのをやめたそうです。
そしてどんどん衰弱していき、老衰のような形で息を引き取ったと。
食欲のある人が死に至るまで絶食するって、相当なことです。
にわかに信じられませんでした。
が、実話。
究極の選択肢
その時は、恐ろしい意志の人がいるもんだとひたすら驚いたのですが、超レアケースだと思っておりました。
しかし
ふと見たテレビ番組で、「不食を選ぶお年寄り」的なものを目にして、愕然としました。
世の中に結構存在しているケースであるというのです!
自発的に飲食を停止して、緩慢な自殺を図る。
表立って自殺、というと色々周りに迷惑をかけるし、大騒ぎになることが、静かに、そうと外部に悟られずに進められるということでこの方法をとると。
何と言っていいかわかりません。
安楽死が認められない中での究極の選択なのでしょうか。
肉体のモード変換?
健康のための「不食」や「断食」はよく耳にするし、メリットも多いと聞きますが、命を落とすためにそれらを行うのと、どういうメカニズムの違いがあるのでしょうか?
断食はまぁ、一時的なものなのでしょうから問題ないと思います。
が、不食はどうでしょう。少数ながら日常を普通にこなす、不食の健康人もいますよね。医学的に健康と言えるのかはわかりませんが、一定期間では死んだりしてませんよね。
<本人の意思の違い?>
「健康になりたい」「痩せたい」などの意思と「命を落としたい」という意思の差なのか。
<高齢者が行うことによる、肉体作用の違い?>
食べ過ぎを是正しサブエンジンを動かし肉体の「疲労回復モード」になるのか、生命維持のサブエンジンが停止し肉体の「稼働停止モード」に自動的になってしまうのか。
どちらもすごい精神力を必要とすると思うのですが、結果の違いに驚きます。
目的が違うと、同じようなことをしても目的に沿った別の結果を得るということなのでしょうか。
健康とは
高齢になるまで健康な体を保てるというのは、素晴らしいことです。肉体的苦痛のない生活を送れるだけでなく、経済的、精神的損失も少なく幸せの大きな要素のはず。長きにわたり正しいを生活送ってきた輝かしい成果です。
だから多くの人は、必死になって健康番組を見て情報を得て、サプリを選び、食事内容に気を使い、運動をして健康長寿のために躍起になっています。
それにも関わらず、食を絶って命を断つという選択肢を選ぶ高齢者がいるという事実。
医者に行って人間ドックや健康診断を受けることをせず、健康に無頓着に好き勝手な生活を自由に送り、結果相応の病気になって寿命を迎える。そういう生き方もあるのかもしれません。必ずしもそれは悪ではないのかも、と思わされました。
太く短く生きる派の人ならよく理解できるのかもしれませんね。
健康に気を使った生活をし、見事健康長寿を得た結果、長すぎる寿命を苦に不食の死を選ぶことがあるとしたら、人間の適性寿命、幸せな生き方とはどういうことなのでしょう。
必要以上に「健康」を追い求めることは、もしかして人間の愚かな欲望なのかも、と思うと怖くなりました。
「健康」とは普遍的な絶対的価値のあるもの、と信じてきましたが、深く考えさせられました。